スキップしてメイン コンテンツに移動

日本人で国民だけど日本国民ではない。そんなニヒリスティックな愛国心。


愛国心があるようで無く、無いようである。そういう人物は多いだろう。


自分も今まで愛国心のある日本国民だったこともあればそうでなかったこともある。


日本は生まれ育った国だし、英語で歌ったりもするけど日本語しか喋れないから最低限の愛国心とかプライドのようなものはあるが、それでいながら愛国心なんて全くなく、日本の文化風習や敬語も嫌いで、日本が滅びようが別にどうでもいいっていう自分もいる。


外国人が増えてることに危機感を感じて「よそ者は国から出てけ!」みたいに右翼的になることもあるが国から出て行ってほしいのは何も外国人だけではなく、日本人に対しても抱いている感情で、要するに自分とは違う人間とか、自分よりも幸福な人間、集中を妨げる人間はすべて国っていうか自分がいる空間から出てってほしいってだけの話で、別に外国人だからとかっていう話ではない。


ただ日本に来てるような外国人はデカい声で喋る奴が多いから、頭の中で考えるタイプの人間としてはどうしても「外人はこの世から消えろ」ってなるだけで、実際にはデカい声で喋ったりデカい咳や咳払いをする男性は国籍問わず全て消えてほしいと思ってる。やかましい選挙カーも国から出て行ってほしい。


今までそんな風に外国人に対する暴力的なエネルギーを感じる時などは自分は日本国民だと錯覚してきたが結局のところ自分はただの国民でしかなかった。


国とは何かっていうと結局「自分」とか「自分の居場所」なんですよね。この世のすべての登場人物は単に純粋なる自国民でしかなかったんです。


国籍とか人種、使用言語っていうのはしょせん「自分」のアイデンティティを形成する多くの要素のうちの一つにすぎない。他にも性別、世代、興味関心ごと、性格、血液型、星座、髪型、服装、その他いろんな要素があって「自分」が成り立つし、また破綻もする。


これらの要素の一つ一つが「国」みたいなもので、私たちはみんな「国々」なんですよね。遥か彼方の国々からはるばるいらっしゃった方々なんです我々日本生まれの日本人は今も昔も変わらぬ人々。


誰だって自分の国を作り、そして守りたい。


そうはいっても1から全て自分で作るのは面倒だし時間もかかるし才能も要る。だから既存のもの、外部のもの、枠組みに自ら加入したり、依存する。


「私は生まれながらの外国人だったのか…」そう気づいた時には時すでに遅しだった。


時既遅子(トキスデノオソシ)は歴史上稀に見るほどの古今和歌臭に満ちた人物であったが、彼もまた生まれた瞬間は無国籍だった。


古今和歌臭とはなにか。


それすなわち古本くさい加齢臭。


そんな香りを嗅いでいるうちに私のシャツは血に染まっていた。絶え間なく流れる、日本人の血液型。


「ぎゃあああ死ぬうう!!おい!!そこの外国人!!輸血してくれ!!否!!ください!!」


『ワタシ敬語ワカラナイ。ソレデモ良ケレバ血ヲ流ス』


病院に運ばれ、国民健康保険証を差し出すと「あなたは国民であるという自覚症状はありますか?」と尋ねられたので私は「自分が日本国民であると感じたことはただの一度もない。私はただの国民だ」と正直に答えた。それにも関わらず医師は私が頭に障害を負ったのだと言い張り、私を外国人墓地へ葬ろうとする。私は慌てて「昔は良かった…」とだけ言い残し、軽い会釈をして後ずさりした。


だからそう、昔は全てが国営だった。人のアイデンティティ形成業務を国家が担っていた。だから愛国心という名の自己愛も国家に向けられていた。


民営化された今となっては民営企業それ自体が「国」で、国家の中に国家がたくさんある。メーカーも、宗教も、娯楽も思想もたくさんある。それら全てが「国」で、その全てに愛国心が向けられている。かつては日本という国家に向けられていた愛国心が、今は世界中の国々に向けられている。愛国心が無いわけじゃない。ただその対象が変わっただけ。「国」の概念が変わっただけなのです。


「それでも最近は厭世的でニヒリスティックな若造ボーイが多いし、パソコンばっかり眺めてるじゃないか。そんなんじゃ小遣いやらんぞぉ」と諭吉は言う。


だがそんなニヒリズムな風潮やパソコン自体が「国」なのです。パソコン王国なのです。ニヒリズムやパソコンに対する愛国心に満ち溢れているのです。もしくは、本当は愛国心を捧げるような一つの国とか宗教とか思想とか生き甲斐を持ちたいんだけど選択肢が多すぎたり何もかも進歩しすぎてやること無かったり繰り返される歴史をさんざん見せられてきたから人間という生き物自体見限っちゃってるからもうどうでもいい、みたいになってる。


愛国心とニヒリズムは表裏一体。ほんとは何かを信じたかったんです。国とか、思想とか。でもそれが何もない、選択肢も多すぎる。その結果としてのニヒリズム。ニヒリズムに向けられた、ニヒリスティックな愛国心。そういうことなんです。


そんなわけで信じるものがたくさんありすぎて逆に何も信じられなくなった私は自分で自分の国を作ろうとしたが人格が破綻しただけだった。


「個人主義」時代の今、一人一人の人間が自分の「国」を作ろうと必死だ。だが人や国は個人では成り立たない。結局、属する国、主義、世代、ジェンダー、企業などが必要になってくる。しかしああ悲しいかな人間は複雑で矛盾に満ちた生き物。何かに属せば属すほど自己矛盾に陥ってしまうのである。


国とは何か。国々。

人とは何か。人々。


そうつまり、国家や個人なんて最初から存在しなかった。国々と人々しかこの世には存在しなかったのであります。


ヒトラーは自身をドイツ人だと誤認し、新しいドイツを作ろうとした。だが結局のところドイツではなく「自分の国」を作りたかっただけだった。ヒトラーがトップになった時点で、皮肉にもヒトラーが変えようと思った「ドイツ」は消えて無くなったのである。それ以前に「ドイツ」なんていう国は存在しなかったのだ。そこにあるのは国々でしかなかった。世界の歴史上、野心に満ちた人々は国を統一しようと奔走してきたが、統一された国家は一つとして存在したことがない。国も人も「個」として存在することが出来ないのだ。


だからプーチンも自分がロシア人では無いことに気づくべきだし、トランプもまた然り。


そんなわけで私も自分が日本国民ではなく、単なる民間人、またはチンパンジーでしかなかったことを強く認識するに至った次第である。



以上をまとめると、


・私たちは日本国民というよりは「自分の国」の国民で、愛国心も「自分の国」に向けられている


・日本が「自分の国」だと思う人もいればMacBookやニヒリズムがそうだと思う人もいる。そしてそんな国々に対する愛国心に満ち溢れながら生きている


・愛国心の無さそうな小学生もみんな愛国心で溢れているが、特に日本という国家に向けられているわけではない


・日本人も外国人も静かに喋ったり咳をしなくてはいけない


・人間は複雑な生き物だから一つの国や一人の個人なんて存在し得ない


・それでも一つの国や企業、主義思想にアイデンティティを求めたり同化するほうが身のためで、フリーランスでいると人格が破綻しかねない


・プーチンの国はプーチン国で、ロシアでは無いしそもそもプーチンはロシア人ではない


・もう何が言いたかったのかよくわからない



ということになります。


最後だけ読んでいただきありがとうございました。


このエントリーをはてなブックマークに追加
Pick Up
©Hiro Kinohara
Powered by Blogger